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 ひとりだけのドラマ


 義母(ハハ)が96歳で他界し、このコラムが公開されるのは、丁度葬儀の最中になると思う。身内の話になるが、超高齢化社会の時代を映す出来事でもある。ここに鎮魂の意を込めてこの一文を捧げる。
 およそ一世紀を生き抜いた人は語るべき歴史を残す。私とハハとの付き合いも50年に及ぶ。走馬灯のように頭の中を駆け巡る思い出から、その生き様の一端を想像を交えて紹介する。
 私が30歳目前の時ハハと出会った。「娘さんを頂きたい」という私の言葉に、即座に「3年このまま交際できたら認める」という厳しいご託宣であった。
 父親の言葉ではない。母親の判断である。つまり実権はハハにあったわけだ。お蔭で私は遅まきながら青春を謳歌できたのだが。
 ハハは個人経営者で働く女性の先駆者みたいな人生を謳歌している最中にあった。
 大正生まれで、関東大震災を経験し、先の大戦の横浜大空襲も生き延びた強者である。
 終戦時は独身で、男尊女卑の色濃く残る時代に女性ひとりが自活することは並でなかったことは想像に難くない。
 その後結婚したが、普通の奥様に収まったわけではなく、本人の自立心の強さもあったとは思うが、自営しながら育児もするという二刀流の道を選んでいる。
 そして、戦後を切り抜け、店も繁栄期を迎えることになる。
 私のような平凡な家庭で育った者の目には、常に仕事に明け暮れる母親という姿は、かなりインパクトがあった。今では女性の社会進出が進み、女性経営者も政治家も珍しくはない。それが故に男女共同参画社会といって、育児も家事も協働するように変わってきている。
 時代が違う終戦直後では社会のシステムが違い過ぎる。働く母親の子育ては、子どもにしわ寄せが及ぶのは避けられない。いつでも甘えることのできる子には、そうでない子の気持ちは本当には分からない。
 こうした問題も抱えつつ子どもたちが巣立った後も仕事は続いた。矢張り仕事が生き甲斐だったのだろう。70歳にもなると、流石に本人より建物がくたびれて、店を壊し新築して半世紀に及ぶ仕事の世界を退いた。
 もともと非常に社交的なハハは、人との交わりを欠かさず、あちこちの講や習い事に忙しかった。孫と旅行するのも楽しみで、我が家の娘も姪っ子と一緒にグアムや香港にまで連れてもらっていた。
 そうした自適な生活も、周りの仲間たちが先に逝くようになり、最後には全員逝ってしまった。卒寿を迎える頃になると、さすがに身体も頭も衰えが進み、人の介護なしの生活は難しくなった。
 人とは不思議なもので、頭や体が衰えても習慣は忘れないようで、いろいろトンチンカンな行動が目立ち、周囲を右往左往させることがしばしばとなった。それでも介護施設に入るのを嫌い家に固執した。これはこうした状況に置かれた老人の共通の願望のようだ。
 家からデイケアに出向く毎日が続き、それでも寝込むこともなく、今年の夏を迎え、八月には旅行もしている。その容体が急変したのは下旬になってからで、それでも意識は戻ることもあり、その生命力の強さを見せつけた。
 そして8月末台風のち晴天。親しい人たちに見送られ旅立っていった。一生というドラマを演じ切り、生前に戒名まで準備し手抜かりはなかった。こういう逝き方を大往生と呼ぶのだろうか。
 




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